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05-18-2024

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PLAYERS STORY vol.2『帰ってきたダイナモ』MF6 徳永裕大選手

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取材・文=北健一郎、舞野隼大(SC相模原オフィシャルライター)


「テゲバジャーロ宮崎での4年間でプレーの幅が広がりました」

徳永裕大が頼もしさを携えて、6シーズンぶりにSC相模原へ戻ってきた。当時中盤の底で走り続けていたダイナモは、今では相手と相手の間に立ってボールを引き出しては前の選手へつなぎ、チャンスを生み出している。

円熟味を増し、戸田和幸監督からは「伝えたことを理解して、実践できるタイプ」と評されている。

「J2昇格という目標を必ず達成させないと、僕が帰ってきた意味がない」

プレーの幅を広げた徳永は今、大きな責任も背負いながら相模原のために再び汗を流している。

厳しい環境に身を投じ、世代別代表に選出

徳永の地元・兵庫県西宮市は甲子園球場があり、周りは阪神タイガースの影響で野球人気が根強かった。自身も「野球なら阪神ファン」と公言するが、兄がサッカーをしていた影響で3、4歳の時にボールを蹴り始めたという。

小学3年生の時に兄もいたという理由で西宮少年SCへ入団し、これがプロになる上での最初のターニングポイントでもあった。

「高いレベルでできたことは一つ良かったポイントでした。厳しいチームだったので、練習は週5、6日で、フィジカルトレーニングや走りだけという日もありました。本格的に上を目指しているチームでしたし、そこでサッカーの基本や技術、走ることをすごく学びました」

関西大会や全国大会にも出場するほどの強豪チームだったことで多くの人にプレーを見られる機会は増えた。全国の各地域から選抜された選手たちが集う「ナショナルトレセン」にも選ばれると、さらにレベルの高い環境で大きな刺激を受けた。

「プロになりたい」

その想いが強くなった徳永は「上を目指すなら誰も知り合いがいないような場所で、レベルの高いチームへ行こうと決めました」と、地元で仲のいい選手も多かったヴィッセル神戸U-15ではなく、当時ずば抜けて強かったガンバ大阪ジュニアユースへの入団を決意。ただその決断は小学生の徳永にとって簡単なものではなく、頭を悩ませては毎晩涙を流していたという。

当時のG大阪ジュニアユースには2学年上に大森晃太郎、ユースへ飛び級昇格しレギュラーにも定着していた宇佐美貴史らがいた。

「家から1時間半から2時間くらいかけて毎日通っていたんですけど、想像通り厳しかったですし、みんな意識がすごく高かった。『日本一の育成組織』と言われるだけあって環境も贅沢で、トップチームの選手たちと同じクラブハウスを使わせてもらっていたし、筋トレするためのジムやグラウンドも本当にすごかったですね」

GMkWvmHagAAfNL3.jpg (※徳永選手が持っていた当時の写真)

充実した場所に身を置き、徳永はパスセンスや相手との駆け引きを磨いていき1年生ながら公式戦にも絡んでいくようになると、U-15日本代表にも選出された。

南野拓実や岩波拓也、中島翔哉らと共にプレーした時のユニフォームは今でも家にあるという。

その後、ユースチームにも昇格し、順風満帆に歩みを進めているように思えた。しかし3年生の夏にトップチーム昇格の可能性がないとわかってからは、気持ちをすぐに切り替えられずにいたが「見返してやろう」という思いと「大学に進学して、このままダラダラ続けていても先はない。なにかを変えないと」という危機感にも似た感情が湧き上がった。

「拾ってもらった」相模原を自らの意思で退団

徳永が進学先に選んだのは、関西学院大学だった。オファーやつながりがあったわけではなく、練習参加を経て入部したのだが、当時チームを率いていた成山一郎監督(現クリアソン新宿コーチ)との出会いが大きな影響を与えた。

「成山さんはサッカーどうこうより『人として』というのを重視する人で、人間性やサッカーに対する姿勢について口酸っぱく指導を受けました」

そのアプローチが徳永のプレースタイルにも小さくない変化を与えた。

今の徳永からは想像がつかないが、高校生時代は「サッカーはボールを扱ってナンボ」という考えでハードワークを嫌い、フィジカルトレーニングの日はサボることもしばしばあったそうだが、今の人一倍走れるプレースタイルの礎は間違いなく大学時代に築かれた。

3年生の時、チームは関西学生選手権大会、関西学生リーグ、総理大臣杯、全日本大学選手権というすべてのタイトルを制し、4冠という偉業を達成。徳永も、その主力として尽力した。

「プロへ行ける」という手応えはあった。しかし、自身の元へJクラブからのオファーが届かなかった。

そんななか、G大阪ユースの時の恩師・梅津博徳監督とSC相模原の渡辺彰宏GKコーチがつながっていたことでシーズン開幕前のキャンプに参加する機会を得ると、そこでアピールに成功し、2017年からプロサッカー選手としてのキャリアがスタート。

「拾ってもらった感じですね」と徳永は当時を振り返る。

当時の相模原は元日本代表の川口能活らベテランが多く、ピッチ内外でのプロフェッショナルな姿を見て学び、試合にもコンスタントに絡めていた。

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「サッカーをしながら別の仕事をしないといけない環境だったことと、『3年目を同じように過ごすのはいけない』と思い、次のチームが決まっているわけじゃなかったですけど、とりあえず環境を変えようと思いました」

契約延長を断って退路を断ち、安泰だった相模原を離れ新天地を探した。

気にかけられていたクラブや目星をつけていたクラブもなく、自分のツテをたどって電話を各方面にかけては練習参加を繰り返した。そんな泥臭いやり方を続けていた時に、JFLに所属していたテゲバジャーロ宮崎と出会い入団することになった。

カテゴリーはJリーグではなくなったが、関係はなかった。宮崎へ入団したことが徳永を選手として大きく成長させた。

宮崎での経験が今の自分を支えている

とりわけ大きな影響を与えたのが、現在はV・ファーレン長崎でコーチを務めている倉石圭二監督の存在だった。

「倉石さんのサッカー感がすごくおもしろくて、なにより自分のプレースタイルに合っていました。最初はJFLでしたけど、宮崎での4年間がサッカーに一番没頭できました。倉石さんの指導を3年間受けた経験が、今の自分を間違いなく支えています」

カテゴリーは下がったものの「楽しく、充実した時間」(徳永)を過ごすと、相手選手と相手選手の間でボールをもらいにいく動きや、ボールを保持してゴールを目指すプレーを身につけ、G大阪の育成組織で培ったパスセンスがより生きるようになった。

個人として成長しながらチームの躍進も支え、2020年にJ3昇格に貢献。その翌シーズン、チームは昇格1年目にして優勝争いに絡む大躍進をし、徳永自身も28試合に先発出場してその中心として戦った。

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J3に昇格して2年目のシーズン、チームは9位と前年度ほど成績はふるわなかったものの徳永は一人で13アシストを記録。「自分のなかで手応えをつかんだシーズンだった」と振り返る。

周りからの評価も高まり、徳永の元にそのシーズンにJ2昇格を果たした藤枝MYFCからオファーが届いた。

「宮崎に契約延長の返事を出す1日か2日前に話をもらいました。年齢的にもオファーがあれば上のカテゴリーで挑戦したいと思っていたところだったので、即決でした」と、迷いはなかった。

藤枝はボール保持に特長があるチームで徳永のプレースタイルとは相性が良さそうだったが、主力になりきれず「不甲斐なさと(評価に)納得できない気持ちがあって、悩んだ1年だった」と振り返る。

11試合に出場し1ゴールという成績だった徳永は、昨シーズンが終了時にクラブから契約満了を言い渡された。それでも、クラブの退団リリースに「自分を応援してくれる全ての人のために新しいステージで輝きます!! 自分の人生ここから這い上がっていくくらいが丁度良い!」という前向きなコメントを残して新たな活躍の場を探した。

フリーになり、オファーを何チームからも受けていたが契約がうまくまとまらずにいた。結婚もし、子どもたちも養っていかなければいけない立場で“就職先”が決まらない怖さもあったが、「なんとかなるやろ」というスタンスだった。
そんな時、徳永の元に一本の電話がかかってきた。フットボールオペレーション部の鷲田雅一からだった。

「僕のことを心配して電話をしてくれて、『1月にキャンプがあるから、そこに参加して自分でつかみ取れ』と練習に参加させてもらいました」

相模原のことは、藤枝でプレーしている時も気にして見ていたという。

「おもしろいサッカーをしている印象がありました。キャンプ中、自分は練習生でしたけどみんなコミュニケーションをすごく取ってくれてチームに入りやすかった」

そしてキャンプの最終日、相模原と再び契約を交わすことが決まった。

「シンプルにうれしかったですね。チームが決まったこともそうですけど、あまり印象の良くない出ていき方をしてしまった相模原でもう一度プレーできることになったので。次こそはチームの力になりたいと思いました」

2月19日、徳永の加入が発表されると、サガミスタからは「おかえり!」という声が溢れた。

そして3月6日のルヴァンカップで相模原“再デビュー”を境に戸田監督の信頼をつかむと、プレータイムを伸ばし、藤枝退団時のコメント通り、這い上がる様を体現している。

「クラブの環境は昔と大きく変わりましたけど、ゴール裏の雰囲気やみんなが団結する感じは変わらないですね。このクラブをJ2に上げたいし、個人的にも悔しい思いをした場所へもう一度挑戦したいと思っています」

4月16日に徳永は30歳の誕生日を迎えた。

「ベテランと若手をつなげる立場になりたいし、プレーでも前と後ろをつなぐ選手になりたい」

大卒時とは異なる覚悟を示し、J2昇格を達成するために力の限りを尽くしていく。

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◾️ほぼ週刊サガミスタ
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