取材・文=北健一郎、舞野隼大(SC相模原オフィシャルライター)
縦横無尽にピッチを駆け回り、身体を相手に強くぶつけてボールを奪う。時には正確な左足のキックでチャンスをも生み出す。
サッカーに対して人一倍ストイックに取り組む西山拓実は、大卒2年目にして副キャプテンを任されている。
昨シーズンの序盤戦は、出場機会がほとんどなかった。その時のことを思い返すと、西山本人も今の立ち位置を「想像できていなかった」と語る。だが、努力を怠ってこなかったことで今をつかみ取ってみせ、戸田和幸監督に「もっとも成長した選手」と言わしめる。
その姿勢は、子どもの頃から変わっていない。
ひたすら走らされ、築かれた西山のベース
(写真:幼稚園の先生と西山選手)
西山は2000年4月20日の兵庫県神戸市北区で生まれた。山に囲まれた田舎町で育ったシャイな少年は、5歳の時に兄の影響でサッカーを始めた。
クラブチームに所属するようになったのは小学2年生の時。FCフレスカ神戸がキャリアのスタートになった。
「フレスカはうまい選手の集まりではなかったんですけど、当時はコーチが厳しくて頑張って強くなったという感じでした。ひたすら走っていた記憶しかないです(笑)」
走って、走って、走らされ、ピッチではサボることを許されなかった。それでも、サッカーが嫌いになることはなかったという。
地元にはヴィッセル神戸という強豪が存在し、そこを倒すことを目標に日々取り組んだ。その結果、6年生の時には県大会で2位になり、チーム史上初めての関西大会出場を果たした。
当時から身体は大きな方ではなかったが、ボールを扱う技術や予測で相手よりも先にプレーすることを心がけた。
ポジションはトップ下だった。ドリブルを仕掛け、スルーパスでチャンスを生み出しつつも「自分がチームで一番点を取っていた」と振り返る。
憧れだった選手は、中村俊輔。
10歳の時にテレビで観ていた南アフリカW杯で、自分と同じ背番号をつけたレフティに魅了された。
中学に進学してもフレスカでプレーを続け、西山拓実のベースはそこで築き上げられた。
高校には、親元を離れて岡山県の作陽学園高校へと進学することになった。中学時代から漠然と、「寮で生活をしてみたい」という気持ちがあったことと「作陽でならお前は輝ける」という監督の言葉を受けて、選手一人ひとりが連動し、パスをつなぐスタイルの強豪校へと進んだ。
挫折を乗り越え、つかみ取ったプロへの道
作陽高校サッカー部は全学年を合わせると総勢約150名という“マンモスチーム”だった。1年生の時はトップチームでの公式戦に出られず、デビューを飾ったのは2年生に上がった時から。その最初の公式戦で、西山は背番号10を託されたという。
「それまで公式戦に出たことがなかったから、『俺?』って感じでした。でも、小学校でも中学校でも10番だったのでうれしかったですね」
エースナンバーを託されるほどの選手になった西山は、2年生の時に高校サッカー部員の全員が憧れる全国高等学校サッカー選手権大会にも出場を果たし、全国ベスト16まで上り詰めた。
最終学年になった3年生の時は、もう一度全国の舞台に戻ってその時以上の成績を残してみせる。そんな気持ちが強かったが、県大会の決勝で岡山学芸館高校に敗戦を喫してしまった。
「大逆転をかまされました……。試合が終わった瞬間は夢かと思うくらい呆然としていました。悔しいというより、何が起きたんだろうと思いました」
決勝では、作陽高校が2点を先行しながら残り1分の失点で延長戦へと突入。2-2のままスコアが動かずPK戦がよぎった最中、残り1分の失点で全国への切符を逃してしまった。
最後こそ悔しい結果に終わってしまったが、「作陽は身体的な能力だけに頼らず、頭を使ってサッカーをしていて、それが自分に合っていました。ボールも扱うし、練習も頭を使うメニューばかりで、高校で初めてサッカーを学びました」とテクニック、戦術的思考が大きく養われた3年間だった。
プロになるには大学を経由してなろうと考えていた。
進学先の候補はいくつかあり、セレクションに申し込んで自分を売り込もうとした。一方で西山に惚れ込んで熱心にオファーを出してきた学校もあった。それが、東海大学だった。
東海大学の前線へ長いボールを蹴るダイナミックなスタイルは自分に合ってないと感じながらも、作陽のコーチ陣からの強い後押しも大きかった。受かるかどうかわからないチームではなく、自分を必要としてくれるチームを選ぶことに決め、岡山から神奈川県の平塚市へと移り住んだ。
「何回も来るところを間違えたと思いました……。ボールは下に転がってなくてロングボールが飛んでいくだけ。1年の時に県リーグに降格してしまって、自分を呼んでくれた方も辞めてしまって。あの時はかなりキツかったですね」
2年生になった1月、東海大学は県予選から勝ち上がって、そのまま全国制覇を成し遂げるという偉業を成し遂げてみせた。各地域の強豪校を次々倒し、決勝ではJリーグ内定選手7人を擁した法政大学に1-0で勝利を収めるという、例を見ない快進撃。しかし、歓喜の中に西山の姿はなかった。
「あの時は不貞腐れていました。チームでは構想外で、公式戦では毎回ビデオを撮っていました」
ただ、ずっと不貞腐れていたところで現状が変わらないことはわかっていた。前向きな気持ちで取り組むようになったこと、3年生に上がった時に主力だった4年生がたちが抜けたこと、ライバルが怪我をしたことで風向きが変わりはじめた。
そして4年生になると、3年の時に再度昇格した関東大学2部リーグでフル出場を続けていると、相模原から練習参加の声がかかった。
その時点で正式なオファーの話はまったくなかったが、運が西山の味方をした。
8月、台風でJリーグの試合が一律で中止になると、翌日に控えていた湘南ベルマーレとのトレーニングマッチの本数が増えて人数合わせのために西山に声がかけられた。
その試合で西山は、センターサークル付近でセカンドボールを回収すると味方とのコンビネーションで前進し、ゴールをアシストしたという。
腐り続けることなく努力を愚直に重ねるようになり、東海大学で磨いてきた自分自身の強みを発揮したことで爪痕を残すことができた。
そして、10月に相模原から入団内定の話をもらい、晴れてプロ選手になることができた。
「一番下」の立場から副キャプテンへ
プロ1年目にあたる昨シーズンは、初めから主力だったわけではなかった。「序列で言えば間違いなく一番下。すごく厳しい世界だと痛感させられました」と西山は当時を思い返す。
その悔しさを原動力に、人一倍トレーニングに打ち込んだ。努力を続けていれば、いずれ報われることも西山はわかっていた。
5月13日、Y.S.C.C.横浜戦でリーグ初先発を飾ると、その試合を境に主力選手へと自らの立場は大きく変わった。
「1試合であそこまで出続けられた理由はわからないですけど、できないことを一個ずつできるようにする姿勢を、戸田さんから評価してもらっていました。『心に大きな変化がある時に、選手は成長できる。そのタイミングが拓実にとって今だと思うから』って」
練習から課題に向き合い、成長を具体的に意識して取り組み、試合では誰よりも汗を流し、日々の成果を発揮しようとする。そうして生まれたゴールが、昨シーズンの奈良クラブ戦で決めた反撃の1点だった。
その後、同じポジションに岩上祐三が加わったことで一時はプレータイムが減ってしまった。それでもベテランから自分に足りないものを盗み、さらなる成長の糧にすると、先発の座を取り戻してみせた。
普段はどこかゆるいオーラが出ている西山だが、ピッチに入るとその空気は一変する。
「スイッチを自分で入れてるわけではないですけど、やらないと生き残れない世界だから勝手にそうなっています。ピッチが自分の仕事場なので、声も出すし、ハードワークすることは絶対。そこをサボれば自分の武器がなくなってしまう」
そんなストイックな姿勢に周りも一目を置き、今シーズンはチームの副キャプテンに任命された。
「1年前はまったく想像できてなかった」と今の自分の姿についてを話すが、ここまでの取り組みを見ていれば、西山がチームを引っ張る存在になれたことは必然だったようにも思える。
「SC相模原は自分を拾ってくれたクラブ。なにかを返したいし、上のカテゴリーに連れていきたい」。そう話す西山は、これからも足を止めることなく、未来に向かって走り続ける。
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