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09-02-2023

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SCS LEGENDS INTERVIEW Vol.1 『相模原の魂』工藤祐生

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取材・文=北健一郎、舞野隼大(SC相模原オフィシャルライター)


「オオオ、工藤祐生 相模原の魂〜♪」

相模原市で生まれ、キャリアのほとんどをSC相模原で過ごした。まさに、“相模原の魂”だった。

クラブが誕生して3年目の2010年、神奈川県1部リーグに昇格した年に工藤は入団した。

工藤は桐光学園高在学時に本気でプロサッカー選手になることを志し、東京農業大学を経て2009年にJFLからJ2に昇格したばかりの栃木SCに入団。そこでプロキャリアをスタートさせた。

しかし監督交代の影響もあり、試合になかなか絡めず1年で契約満了を通告されてしまう。若くしてプロの厳しさを味わった工藤だが、折れることなくJリーグの何チームかに練習参加。しかし正式オファーを受けることはなかった。そんな時、中学の同級生だった坂井洋平とのつながりで、相模原の練習に参加した。

県リーグに所属しながらも、秋葉忠宏(現・清水エスパルス監督)や船越優蔵(現・U-18日本代表監督)、現在クラブの強化部長を務める鷲田雅一らJリーグでプレー経験のある選手たちが名を連ねていた。

一人ひとりがハングリー精神の塊で、「またJの舞台に戻るんだ」「環境を自分たちで良くするんだ」という気持ちで戦い、監督を務めていた望月重良氏からはJリーグ水準のクオリティを常に求められていた。

「ここでもう一度Jリーグに上がって、このチームでやり切ろう」

当時23歳。工藤は、地元にできた新進気鋭のクラブで骨を埋める決心をした。

JFL昇格へ、人生を懸けて戦った三度の“地決”

「僕が入った時は、夜にナイター設備のある小学校の土のグラウンドを借りてトレーニングしていました。みんな仕事終えたら集まってきて、ゴールネットから設置して、練習が終わったらシゲさん(望月創業者兼フェロー)も一緒にトンボがけする環境でした」

元日本代表選手がチームを率いて、元プロ選手たちが本気でJリーグ昇格を目指していたが、当時の環境はアマチュアチームと大きく変わらなかった。中には、当時からプロ契約の選手は何人かいたそうだが、工藤は親戚のツテで始めた遺品整理士の仕事をしながら練習にも参加する日々を送った。

「カテゴリーはJリーグじゃないですけど、毎年のように選手が入れ替わっていて、サッカーが できなくなる選手を何人も見て来ました。地元でキャリアを終えるのが理想でしたけど、契約は1年ごとでしたし、若いうちに来ていたので『ここから上がるしかない』という気持ちで必死でした」

チームは毎年、破竹の勢いでカテゴリーを上げていったが、JFLへの壁が高かった。

JFLへ参入するには、通称“地決”と呼ばれる全国地域サッカーリーグ決勝大会で上位に食い込む必要があった。

相模原は、Jリーグ加盟を標榜するクラブに対する優遇措置をJFAから承認され、県リーグに所属していた2010年からこの大会に出場していた。

1次ラウンドの最終節・レノファ山口FC戦では、引き分けてPK戦で敗れても勝ち点1を獲得できるレギュレーションだったため、そうなれば相模原は決勝ラウンドへと駒を進めることができた。1分と7分に森谷佳祐がゴールを挙げて試合は有利に進んでいたが、後半に打たれた3本のシュートがすべて決まり、2-3で逆転負け。まさかのグループ2位で敗退することとなった。

「地決には魔物がいる……」

工藤は身をもって苦い経験をした。そして2年目の2011年は、一次ラウンドで全勝して決勝ラウンドへ進出。4チーム中3位までにJFL昇格のチャンスが与えられたが、3戦全敗で4位という結果に終わった。

3日間で3試合を行うという、超過酷な日程。この大会のために競技人生を懸けて戦ったと言っても大袈裟ではない。だが、思いが強いのはサポーターも同じだった。

「なにやってんだ! いつになったら上がるんだよ!」

サポーターから初めて厳しい言葉をスタンドから浴びせられた。工藤は「ここで死んでもいい」と思うくらい人生を懸けて戦っていたが、その時に悔しさや腹立たしさ、いろいろな感情が溢れ、手袋を地面に思い切り叩きつけて反論した。

「今、そのサポーターの方に会ったら謝りたいですね。応援してくれる人も一緒で、必死だったんです」

もう同じ悔しさは味わいたくない。誰もがそう思った。そして翌シーズン、クラブは木村哲昌監督を招へい。上のカテゴリーへ引き抜かれ、個人昇格した選手や契約満了になった選手もいたなか、地決の悔しさを知る選手とJクラブに在籍の経験がある曽我部慶太や菅野哲也ら新戦力が一つになり、「次こそ絶対にJFLへ昇格するんだ」という気持ちを全員が持ってシーズンを戦った。

そうして関東1部リーグで優勝し、関東代表として地決へ三度目の出場権を得た。

一次ラウンドをワイルドカードで勝ち上がり、相模原は決勝ラウンドへと戻ってきた。初戦のファジアーノ岡山ネクスト戦は、先制されながらも追いつかれ、1-1で90分が経過。引き分けで終わってもおかしくない試合だった。

しかし──。アディショナルタイムに菅野のパスを曽我部が右足ダイレクトでゴールに蹴り込み、最後の最後で相模原が勝ち越しに成功した。
参考

中1日で迎えたノルブリッツ北海道戦を3-0で制した相模原は、勝ち点6を獲得した時点でJFLへの昇格が決定。“三度目の正直”で悲願を叶えた。

3戦目の福島ユナイテッドFC 戦では88分に菅野が決勝点を決めて3戦全勝し、これまで言葉では言い表せないほどの悔しさを経験してきた大会で優勝まで達成することができた。

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J3に参入したが「目指していたのはここじゃない」

2013年、相模原は1年目のJFLで3位という成績を収めたことで、翌年新設されるJ3リーグ参入の承認を得た。

栃木を退団し、4年かけて工藤は再びJリーグの舞台へと戻ってきた。だが、満足する気持ちは一切なかったという。

「今までなかったリーグなので、『Jリーガー』と呼んでいいのかと言っていいのかという葛藤がありました。当時は全員がプロ選手ではなかったし『ここじゃないな』と。ここで勘違いしていたり、充実しているようでは先がないと思ったので、J3で圧倒するくらいにならないと上では戦えないと思っていました」

開幕から程なくして、チームに元日本代表のレジェンド・高原直泰が東京ヴェルディから移籍してきた。

「衝撃でした……。Jを経験してきた選手はこれまでもたくさんいましたけど、W杯に出て、ドイツで“寿司ボンバー”と言われた高原選手は今まで一番のビッグネームでしたね。そこでサポーターが一気に増えて、観客数も平均で4,000人くらいはいたと思います」

シーズンの途中には工藤がキャプテンを任され、当時28歳ながら高原らベテランの選手もいるなかで、手探りの状態でチームをまとめた。ただ、当時のクラブはJ2ライセンスがなかったため勝っても昇格できず、降格制度がなかったため敗戦へのプレッシャーがなかった。選手の契約もプロ、アマチュアとバラバラでモチベーションがなかなか揃わなかった。

それでも工藤自身、「悔しい思いをしたJ2にまた上がりたい」という気持ちをエネルギーに戦った。「とにかく結果を残し続けて行政や周りの人たちを動かそう。SC相模原が相模原市のシンボルになれるよう、もっともっと盛り上げよう」と。

そうした姿勢がサポーターにも伝わったのだろう。工藤は、いつしか“相模原の魂”と呼ばれ特別な存在になっていった。

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川口能活から学んだ“本当の努力”

2016年、工藤に大きな衝撃を与えた選手がもう一人現れた。川口能活だ。W杯に4回も選ばれた経験を持つ守護神を間近で見て、「自分が今までやってきた努力は能活さんにとっては当たり前というか、努力にもならない」と感じるほど超ストイックなプレーヤーだった。

「練習の1時間半前にはグラウンドに来て、体を作ってからトレーニングと自主練もして、練習後もまたケアして。すべてサッカーに懸けていました。食事でも遠征先で出てきた唐揚げの衣を全部剥がして食べていましたし、そういう選手が上にいけるんだな、と」

それ以外では、いい睡眠をとるために寝具にこだわるなどパフォーマンスを上げるための投資も惜しまなかったという。常に競技のことを考え、そのための行動を起こしていた。

「ブランドもののいい服を着たり、いい財布を持ったり、髪を染めることが別に悪いわけじゃないですけど、その前にやるべきことがあるんじゃないかと思いました」

工藤をはじめとする選手たちに大きな影響を与えた川口は、相模原で3シーズンプレーし2018年に現役引退を決断した。

「あの光景は忘れられないですね……。バックスタンドが増設されて、照明と電光掲示板もできて、年月をかけながらちょっとずつ出来上がっていったスタジアムが、あそこまで満員になったのを見たのは初めてでした」

12月2日。鹿児島ユナイテッドFCとの最終節に、引退を公表した川口の最後の勇姿を見届けようとクラブ記録の12,612人が会場に足を運んだ。スタジアムの規模は小さく、サポーターが10人ほどしかいなかった時代を知る工藤は、当時の様子を感慨深く振り返った。

試合は、川口がファインセーブを何度も繰り返し、サイドバックで出場した工藤も献身的に戦って1-0で勝利を収め、レジェンドに花道を飾った。

その2日後、工藤は契約満了を告げられた。在籍10年目を目前に控えていたタイミングでのことだった。

「シゲさんから事務所に呼ばれて、『来季は契約しない』と言われて頭のなかが真っ白になって……。あまり覚えていないのですが、『ありがとうございました』とだけ言って出ていったような気がしますね」

当時、クラブの周りには「そろそろJ2ライセンスを取得できるんじゃないか」という噂が流れていたこともあり、10年目のシーズンは「このクラブを上のカテゴリーに本気で上げよう」と意気込んでいた時に、志半ばでチームを去らなくてはいけなくなった。

契約満了のリリースが出された翌日、工藤は同じく退団の決まった辻尾真二、菊岡拓朗と共にサポーター忘年会に参加した。

「なにを喋っていいかわからないですけど……このチームでサッカー人生を終わらす覚悟を持っていました。自分の思い描いていたものとは違って、悔しい思いはあるんですけど、このチームは続きますし、またいつか違った形で帰ってこられたら温かく迎え入れてください。本当にありがとうございました」

サポーターへ、最後に直接感謝を伝え、退団後はエブリサ藤沢ユナイテッドに選手として籍を置いている。だが、「自分のなかではあそこが一つの区切りだった」と契約満了から2カ月後に現役引退を表明した。

あれから約5年──。工藤は、個別指導型サッカースクールの「Albari(アルバーリ)」を立ち上げ、相模原市から世界へ羽ばたく選手の育成を行い、クラブは今年で創設から15周年を迎える。

小学校の土のグラウンドで照明をつけて練習していたSC相模原を取り巻く環境は大きく変わった。今年からDeNAの連結子会社となり、競技面においてはSCSラウンジと呼ばれる食堂ができて選手に昼食と夕食が提供されるなど、着実に大きくなっている。

9月9日に行われるホームゲームの鹿児島戦前には、SCSレジェンズvsホームタウンU-15による特別試合も行われる。チームの歴史そのものである工藤もその試合に出場予定だ。

「昔のサポーターやスポンサーの方も観に来てくれて、また関わりが持てたらいいですよね。トップチームの選手たちには『また応援したいな』と思ってもらえる試合をしてほしいです」と工藤はエールを送った。

小さかったサッカークラブは、彼をはじめとするレジェンドたちによってJリーグに参入した。そのバトンはどんどん受け継がれ、さらに大きなクラブになろうと今も前へ前へと歩みを進めている。

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