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06-10-2023

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SCS STAFF INTERVIEW Vol.1『相模原を“GK王国”にするために』松本拓也GKコーチ

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取材・文=北健一郎、舞野隼大(SC相模原オフィシャルライター)



今季からSC相模原のコーチングスタッフに加わった松本拓也の役職は、トップチームGKコーチ兼ヘッドオブGKコーチ。

トップチームのGK陣を指導するだけでなく、相模原市内から将来の日本代表守護神を発掘、育成するという大役も任せられている。

年齢は43歳と指導者としては若い方だが、二十歳から指導者に転身。GK大国であるドイツで経験を積み、柏レイソルでは中村航輔を日本代表GKにまで育て上げるなど屈指の実力を備えている。

相模原で共に仕事をする以前より戸田和幸監督からも厚い信頼を寄せられている彼は、どんな道を歩み、どんな野心を持って相模原でのこのプロジェクトに携わっているのだろうか。



元々は野球少年。
GKを始めたのは高1の夏

「中学2年生まで野球をやっていて、ポジションはピッチャーでした」。

ボールを手で扱うという意味ではGKと同じだが、松本は元々、野球少年だった。だがある時、「野球肘」を患ってしまう。

「ちょうどその時、Jリーグが発足して2年目のタイミングでした。サッカーは一人に依存しないで11人みんなでプレーできるので、『おもしろいな』と思ってずっと見ていたんです。病院では、『肘は手術をすれば治る』と言われましたけど、野球はピッチャー一人のコントロールで勝敗が決まってしまう要素が多いと感じていました。だから、『手術しないで、いっそのことサッカーをやってみよう』と思ってサッカーを始めました」

サッカー部に入部したのは、中学2年の3月だった。

ポジションはもちろんGK……ではなく左ウイング。左利きだったため、そのまま左サイドでプレーすることを選んだ。

「中学3年になった4月から本格的にスタートして、7月の総体が最後の大会だったので、実質4カ月弱でしかプレーしてないです。そこからは公園に行って、一人でずっと練習していました」

笑いながら当時を振り返る松本は、家から近い距離にある千葉県の船橋芝山高校に進学。そこが初めて本格的にプレーする場になる。

転機が訪れたのは1年の夏のことだった。1年だけで出場する大会があり、同じ学年にGKは誰もいなかった。

サッカーを始めた時もそうだったが、純粋におもしろいものに飛びつきがちな松本は、今回も「楽しそうだし」と思い、GKとして大会に出場することを直談判しにいくと、そのままGKへと転向した。

「初めての試合のことは覚えてないですけど、何試合目かの時に頭の上に飛んできたボールを止めようとしたら入ってしまって『と、取れない!』って難しさを感じました(笑)」

今でこそ日本屈指の指導者になり、今年3月には『サッカーGKパーフェクトマニュアル』という書籍を出版している松本にも、ちゃんと初心者だった時期はあったようだ。

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経歴をさかのぼると、松本は柏レイソルユースにも所属経験がある。高校1年の途中にGKへと転身したにもかかわらず、だ。

公式戦で大活躍し、それがスカウトの目に留まったのだろうか。入団の経緯は想像のはるか斜め上をいくものだった。

幼い頃からスポーツに打ち込んできた松本の上達スピードは速く、競技志向も強かった。次第に高校のサッカー部の空気感が肌に合わないと感じるようになり、地元の市川カネヅカSCへ練習参加した。ある日、そこでキャプテンを務めていた“石井くん”が柏ユースから声がかかり、練習に加わることになったのだが、なんとまったく関係のない松本も勝手についていった。

「『もう一人来るなんて聞いてないぞ!』ってレイソルのコーチにビックリされましたね(笑)。でも、『まあ、いいか』となって、石井くんと1週間一緒に練習させてもらいました。それで3日目くらいに『うちに来ていいぞ』となったんです」

高校2年の冬、型破りすぎる方法で柏ユースへ入団。プロの卵たちとともにトップチーム昇格を目指すことになった。ただ、自分と同じ代には静岡学園高校で大活躍していた南雄太の入団が早々に内定し、トップチームへの昇格は難しかった。

「仮にこのまま大学で続けてもおもしろくないな」。そう思った松本は、オリバー・カーンをはじめ、後に世界で活躍するマヌエル・ノイアーやテア・シュテーゲンという世界的守護神を輩出しているドイツでプレーすることを決意した。

高校を卒業後、単身渡欧し早生まれだった松本は当時ドイツ1部リーグに所属していたウンターハッヒングのユースチームに1年間プレーし、2年目に同クラブのアマチュアチームに所属した。

「週末になると(トップチームのメンバーから外れた)3番手のGKが試合に出るために僕らの試合に参加するんですが、その選手はすごかった……。トップチームの1番手と2番手の選手が怪我をしたタイミングにドルトムント戦で活躍して、そのままレギュラーになりました。その数年後に彼はプレミアリーグのスウォンジーに移籍していきました」

ヨーロッパの最前線で活躍する選手と同じグラウンドで練習し、「太刀打ちできない」と大きな衝撃を受けた。2シーズン目が終了した5月、2年で日本に帰ると両親との約束していたため、日本へ戻ることを決断した。

帰国後の松本は、サッカーに対しすべてネガティブになっていたわけではなく、別の可能性を探ろうと前を向いていた。

「ドイツに行って、『自分は選手として第一線でプレーできるレベルじゃない』と感じました。でも、二十歳から指導者を始めれば、同世代の選手が引退して指導者を始める頃には、雲泥の差が生まれてるんじゃないかと思ったんです」

そうして指導者としてのキャリアがスタートした。


柏ではアカデミーからトップチームに携わり、W杯選手を輩出


松本のドイツ行きをサポートした“石井さん”が当時、川崎フロンターレの育成でテクニカルダイレクターを務めていた前田秀樹氏をつなぎ、その縁でGKコーチとして川崎Fのユースに携わることになった。

指導者になったとはいえ、最初は当然、右も左もわからなかったなか、当時川崎Fのジュニアユースで監督を務めていた曺貴裁氏たちから指導者としてのイロハを学んだ。指導をしていた選手が実際にうまくなっていく様子を目の当たりにし、やり甲斐を感じる日々を送っていたのだが、次第に自分のなかでの引き出しがなくなり、頭を悩ませる日々を過ごしていた。

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そんな時、古巣の柏から「U-18のGKコーチとして戻ってこないか」と声がかかり、心機一転。環境を変えることを決心した。

当時の柏U-18を率いていたのは、昨年ヴァンフォーレ甲府を天皇杯優勝に導いた吉田達磨氏。

「サッカーは11人でプレーするもの。GKは10+1じゃなくて、11人のなかの一人だ」

今でこそGKからのビルドアップは主流となってきたなか、吉田監督のそうした最先端の指導哲学を受け「GKもビルドアップに加わる戦術に関わっているうちに自分の(指導者としての)幅が広がりました。そういうものを落とし込むにはどうすればいいか、いろいろ考えられるようになりました」と、指導者として伸び悩んでいた松本は壁を一つ乗り越えた。

もう一つ身につけたのが将来、背が高くなる“原石”の見つけ方だった。そうした選手にGKとしての動きや駆け引きを伝え、柏では中村以外に現在トップチームのゴールマウスを守る松本健太や佐々木雅士、ポルトガルのSLベンフィカに在籍している小久保玲央ブライアンらを育て上げたのだ。

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そして2015年に柏のトップチームのGKコーチに就任。2012年のFIFAクラブワールドカップでネイマールを擁するブラジルの名門・サントスとの試合でゴールマウスを守った菅野孝憲たちからも指導論や実際のトレーニングを高く支持されたことがより自信につながった。

ユースやアカデミー、トップチームで指導し、教え子だった中村をオリンピック、そしてW杯メンバーに送り出せた。

「柏でやり残したことはもうない」そう思うと同時に「次のチャレンジをしたい」という新しいモチベーションがふつふつと湧き上がってきた。

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そこでクラブからも了承を得て、再び海外に飛び出すことを決断。JFAとJリーグが協働で行っていた海外研修支援によって、ドイツの1.FCカイザースラウテルンへ1年間の研修を受けにいった。

「指導者の指導者になりたい」という最終的な目標を持っていた松本は、J2やJ3でのカテゴリーも経験したいと兼ねてより思っていたことと、ドイツへ行く前、後輩に柏での仕事の道を譲っていたため、帰国後は柏に戻って半年アカデミーを指導したのち、大宮アルディージャに入団。40歳を過ぎ、同い年の南と指導者と選手という立場で共に仕事をすることもできた。

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「41歳にして新しい考え方に触れて、選手としてもうワンランク上にいけるかもしれない」。20年以上キャリアを積み重ねる大ベテランからそう言われ、指導者としてこの上ない名誉だろう。

そうして2023シーズンの前に相模原からのオファーを受けた。

SC相模原の「トップチームGKコーチ兼ヘッドオブGKコーチ」として抱く野望

柏や大宮といった歴史のあるクラブと比べれば、相模原は発展途上中のクラブであり、街の人口も多い。高いポテンシャルを秘めていることに魅力を感じたという。

入団時の挨拶で「練習場やスタジアムに足を運んでもらえるようなGKをアカデミースタッフと共に育て上げ『GKの最も育つクラブ』と感じてもらえるように日々努力したい」とコメントを残していた松本は、「トップチームGKコーチ兼ヘッドオブGKコーチ」として、育成年代のGKコーチと彼らの下でプレーする選手たちの指導にも当たっている。

時には相模原市内の4種委員会にも出席している。そこでジュニア年代の指導者が集う場でクリニックの案内を出し、50人近い小学生が参加。そこでまだ発掘されてない、高い潜在能力を持った選手を見つけ、いずれはプロで活躍するような選手に鍛え上げるという、これまでに経験したことのない壮大で、やり甲斐を感じるミッションを与えられた。イチGKコーチでは携われない、“ここでしかできない大役”だ。

抱く野望は、相模原をGK王国にすること──。

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将来的には今、トップチームにいる選手はもちろん、アカデミーでプレーしている選手からも日本代表守護神を輩出することを一つの目標に掲げている。

同時に相模原市内の指導者を先導し、協力しながら、相模原からいいGKがどんどん生まれるような循環を作っていくこともこのクラブでの大きな役割になる。

そして松本個人の目標で言えば、もう一度海外に出て、今度はトップカテゴリーの指導に当たりたいと話す。

「この年齢になって指導者で海外に行くことは少ないので、個人的にはそこに挑戦したいと思っています。それでいろいろなことを経験した先に、指導者のみんなと協力しながら、日本中の子どもたちにいいものを満遍なく行き届くようにしたいですね」

今はその“ミニチュア版”をこのクラブで行っている最中。相模原をGKが最も育つクラブにし、ここを中心にドイツのような実力あるGKを日本からどんどん輩出する──。それが長期的な松本の目標であり、願いでもある。

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