炎の守護神 川口能活 Jリーグ通算500試合出場達成記念 メモリアルウェブサイト

1975 誕 生

8月15日 静岡県富士市に生まれる。

子供のころから富士山と茶畑に見守られながら育ったヨシカツ。学校のグラウンドでは富士を背景にサッカーをしてきた。どこにいても富士山の方角が気になるほど富士への強い思いをもつ。獅子座のA型。

1984 サッカーとの出会い 9

小学校3年生の時に

キャプテン翼と兄の影響でサッカーを始める。さまざまなスポーツをそつなくこなす運動神経を持っていたが、サッカーだけは自分の思うようにならず、本気で取り組もうと決意。4年生の時に指導者から指名されてゴールキーパーに挑戦することになる。ユニフォームも自分だけ違っていて目立つこと、そしてなにより試合にでられるからというのがその理由。

練習を繰り返すうちに少しずつシュートを止められるようになり、よりカッコよく止める瞬間に楽しさを覚えるようになる。ゴールキーパーとしてはそれほど背の高くなかったヨシカツは、相手の足元に飛び込み距離を縮めて体で止める事は自分にあっていると感じていた。攻撃的と評されるヨシカツのプレースタイルはこの時から始まった。

参考:人を大切にする日本一幸せな学校 静岡県富士市立天間小学校

1986 家族の支え 11

家が火事で全焼

小学校5年生の時に実家が全焼してしまった。失意の中、家族のためにすぐ家を建て直すと宣言し、そのとおりに実行した父親の姿が今も心の支えとして胸に残る。そんな家を建て直して家計が大変な時に、ヨシカツと兄の希望進路が共に私立であったが、兄は「俺は大丈夫だから、お前は強豪の東海大一中へ行け。その代わり必ず俺を国立に連れて行ってくれ。」と激励し、ヨシカツに道を譲る。母もまた辛い練習が続くヨシカツを応援し続けた。厳しい時期にあっても、こうした家族の支えがあってサッカーに打ち込むことができた。

1988 より高いレベルへ 13

東海大一中へ進学する。全国大会に出場。

地域の選抜チームでもプレーしていたヨシカツだが、より高いレベルの環境を求め、静岡市にある多くのプロサッカー選手を輩出する私立 東海大学第一中学校(現:東海大学付属静岡翔洋高等学校・中等部)へ進学。早朝の電車通学が始まる。ヨシカツが弱音を吐くほど厳しい練習が続いたが、在学中、3年連続で全国大会に出場した。なおこの時から8年後、アトランタでブラジル代表を撃破する「マイアミの奇跡」のオリンピック代表メンバーには、同校で2学年上の服部年宏、1学年上からは伊東輝悦、白井博幸、松原良香、ヨシカツの5名の選手がいた。元日本代表FW高原直泰もヨシカツの4学年下で同校出身である。


参考:多くのプロサッカー選手を輩出する 東海大学付属静岡翔洋高等学校・中等部

1991 運命の出会い 16

名門 清水商業高校へ

実家を離れサッカーの名門、清商(現:清水桜が丘高校)へ。下宿生活が始まる。3年生の時にはキャプテンを務め、全国選手権の準決勝で城彰二を擁する鹿児島実業を破り、決勝では前年度王者の国見に2-1で勝利。5年ぶり3度目の優勝に大きく貢献し、兄との約束を果たすこととなった。ただ入学当初は「富士市出身で本当にサッカーがうまいのか?」という風に周囲から見られていると感じていた。清水市では未就学児のサッカー大会でも子供たちはポジションの概念を持ってプレーしていた。ヨシカツはそうした雰囲気をバネにして1年生からレギュラーを獲得する。

高校選手権優勝3回、高校総体優勝4回、全日本ユース選手権優勝5回に導いた高校サッカー界の名将 大瀧雅良監督との出会いもこの時であった。

「これからのキーパーはゴールを守っているだけでは駄目だ。」

中学時代の恩師である桜井先生に続き、大滝監督もヨシカツの相手の足元に飛び込むプレースタイルを後押しする。こうした言葉によって自身のプレースタイルに確信を持つ。

なお2つ上の学年には現SC相模原会長の望月重良が。1つ下には現SC相模原監督の安永聡太郎がいた。ちなみに大滝監督とは未だに手紙で「3人(ヨシカツ・安永・望月)をよろしく頼みます。」と弊クラブへの挨拶を欠かさない愛情溢れた指導者でもある。


参考:名門 静岡市立清水商業高等学校

1992 人生を変えた韓国戦 17

ユース代表に飛び級で選ばれたが・・・

西野朗監督はヨシカツと共に、服部年宏、伊東輝悦を召集。後にマイアミの奇跡を起こすベースとなるこのチームで、1979年の自国開催以来、出場権を獲得できなかったワールドユースを目指して戦う。しかし準決勝で死闘の末に韓国に敗れてしまう。ヨシカツはあまりに悔しくてこの日は眠れなかった。

この敗戦の前までは、誕生したばかりでどうなるかわからなかったJリーグではなく、私立にまで進学させてくれた親のことも考え、大学に進学し教員免許を取得して指導者になろうと考えていたが、この悔しさを晴らすには4年後のアトランタオリンピックに出場するしかないと感じ、Jリーグへ進むことを決断する。

なおこのときのコーチは後にジュビロ磐田にヨシカツを誘うことになる山本昌邦氏であり、この試合で得点を挙げた韓国のFW崔龍洙(チェ・ヨンス)とは後にジュビロで共にプレーすることになる。

横浜マリノス 1st - 193th games

1994 イバラの道へ 19

不動の日本代表GK松永成立とのポジション争いへ

数々のJリーグクラブの誘いの中から横浜マリノス(現:横浜F・マリノス)へ。ヨシカツは当時不動の日本代表GKだった松永成立に強い憧れを抱き、松永とのポジション争いによって自分を成長させるためにマリノスを選んだ。そのため数年は試合にでられないことを覚悟していたが、チャンスは思っていたよりも早くやってくることになる。

なお松永は前年の1993年、日本サッカー史に名を残す「ドーハの悲劇」のゴールキーパー。ロスタイムに得点を決められ、この悲劇の舞台に上がってしまう。松永はこの試合後のしばしの記憶がないと後に語っている。

この3年後に「ジョホールバルの歓喜」の舞台に上がる川口。その二人がこの時同じチームですれ違ったことは奇縁としかいいようがない。

年間出場リーグ戦 0試合

1995 Jリーグデビュー 20

高卒2年目ルーキー、正ゴールキーパーへ。

この年就任したホルヘ・ソラリ新監督によってヨシカツは大抜擢される。高卒2年目のヨシカツがサポートを受け、守備の哲学を学んだのは、日本サッカー界を代表するディフェンダーである井原正巳であった。

なおこの2年後のフランスW杯の最終予選、本大会出場のために負けられない岡田監督の初采配であったウズベキスタン戦で、ヨシカツは極度のプレッシャーのために泣きながら試合をしていた。ヨシカツの長いキーパー人生でも泣きながらプレーしたのはこの試合だけである。そのヨシカツがなんとか平常心を保てたのは最終ラインにいた井原のお蔭であった。井原がそこにいるだけで心強かった。

ヨシカツにとって強いキャプテンの象徴といえば井原のことである。

アビスパ福岡 井原正巳監督

背中を見てきた。

井原さんは自分がデビューしたときに本当に助けてくれた人ですね。自分がプロとしてデビューするにあたり井原さんのサポートがなかったら・・・ ピッチに立った時に井原さんが醸し出す安心感とリーダーシップ。井原さんが僕と同じピッチに立っていてくれたから自分もプロのキーパーとして試合に出続けられたのかなと思います。当時代表でも主力でマリノスでも代表でもキャプテンをやっていましたからね。井原さんの背中を見てきた。トレーニングに対する姿勢だったり試合に対するアプローチだったり影響を受けた。真面目で常に冷静ですね。安心感やリーダーシップもあり全てを備えていた人でした。

1995.4.26 Jリーグデビュー戦

Jリーグサントリーシリーズ

国立でデビュー戦を飾る!

vs 柏レイソル
1-0

ヨシカツが振り返る「あの時」
1995.12.6

Jチャンピオンシップ第2戦

年間王者決定戦!

vs ヴェルディ川崎
1-0

ヨシカツが振り返る「あの時」

横浜FC 三浦知良選手

能活からゴールを決めることで自信が持てた


Jリーグ通算500試合出場おめでとうござます。

能活とは日本代表でも共にプレーをし、対戦相手としてもたくさん対戦しました。自分がヴェルディの頃は、能活がマリノスで、能活からゴールを決めることで、当時自分自身に自信が持てた記憶があります。

代表ではいつもシュート練習の相手をしてもらっていましたね。本当に良い思い出です。

積み重ねることはとても大変なことですが、これからも出場記録をのばせるよう頑張ってください。

手元でぐっと伸びるようなシュート

カズさんはサッカー界のみならず、日本のスポーツ界におけるレジェンドですね。この歳までプレーされているので体力維持やプロ意識、そして何より精神力。カズさんがいるから日本のサッカー界が成長し続けられているのだと思う。

僕が中学生の時にカズさんがサントスSCとして来日したときに静岡でサイン会をされました。僕はカズさんのサインをもらうためにそのサイン会に行ったことをいまでも覚えていますね。日本代表でもよく一緒に練習もしてくださいましたし、カズさんは僕にとって大きく影響を受けた方です。イタリアから帰ってきてヴェルディ川崎在籍時に試合をしたことがあって、その時に僕はカズさんのシュートを止められなかったんです。僕の手元でぐっと伸びるようなシュートでした。

やはりイタリアで経験されてるカズさんは何かが違うなと感じました。

Jリーグ 新人王

自身初となるJリーグのタイトルを獲得

ベストスマイル・オブ・ザ・イヤー

日本歯科医師会主催。前年度の受賞者はプロ野球イチロー選手であった。

年間出場リーグ戦 41試合

1996 奇跡とは 21

悔しさをバネにして - マイアミの奇跡 -

4年前、ワールドユース予選で味わった悔しさをバネにしてここまでたどり着いたU-23日本代表。その前に立ちはだかったのはU-23ブラジル代表であった。ブラジルはオーバーエイジ枠を活用し、フル代表とさほど変わらないようなチームであったが、日本は綿密なスカウティングのもとにこのブラジルを撃破する。28本のシュートを浴びながら無失点に抑え、後にマイアミの奇跡と呼ばれるこの試合だが、ヨシカツにとっては奇跡ではなく、しっかりとした準備をして、集中して試合に臨むことで結果がついてくると信じることができるようになった試合であった。この翌月にはA代表に初招集されることになる。

日本年間最優秀選手賞を獲得

1シーズンを通して最も活躍が認められた選手に贈られる賞。Jリーグでもトップレベルの存在に。

年間出場リーグ戦 15試合(通算56試合)

1997 飛 躍 22

日本のワールドカップ初出場に貢献

アトランタオリンピックでの活躍が認められ、加茂監督から日本代表メンバーとして初召集される。この年に国際Aマッチ初出場を果たすと、フランスワールドカップ最終予選では正ゴールキーパーの地位を獲得する。ジョホールバルの歓喜として知られる11月16日の最終予選第3代表決定戦も先発出場し、歓喜の輪に加わった。日本におけるゴールキーパーとしての地位を飛躍的に向上させる1年となった。

期待のルーキー

この年マリノスに大型新人が入団する。前年に高校選手権で準優勝を果たし、その左足から繰り出されるフリーキックは魔法のような弧を描く。彼のFKを育んだのは井原、小村、城彰二という壁であり、奥にはヨシカツが控えるという練習環境であった。絶対に壁に当てられないというプレッシャー下での練習がこのルーキーの左足を磨いた。ヨシカツは彼が望むままに練習に付き合い、何千本も受けてきた。

飲酒も喫煙もせず、極力脂肪分の摂取を避け、天ぷらの衣をはがし、肉はグリルで焼いて油を落とす。1日5回体重計にのり、100グラム単位で自己管理するヨシカツ。すべてをサッカーにささげるヨシカツの姿に強い影響を受けた。

ジュビロ磐田 中村俊輔選手

どの監督からも愛されていた

俊輔はもう僕の手の届かないようなところにいってしまった選手ですね(笑)

練習がすごく好きでどの監督からも愛されていました。マリノスの監督からも代表の監督からも俊輔は認められていたと思いますね。やはり光るものがあったのでしょう。俊輔はゲームを決められるんですよ。やはりゲームを決定づけられるという選手はなかなかいない。さらにこの歳になってもゲームを決定づけられるというのが凄い。一緒にトレーニングや自主練もよくやっていましたね。僕も見習いたいですね。

彼に対しては、歳下ですがリスペクトでしかないです。

年間出場リーグ戦 22試合(通算78試合)

1998 世界との差 23

日本初のワールドカップ出場ゴールキーパーに

ただ一人、フランスW杯予選にフル出場したヨシカツ。本大会も日本代表に選出され、1次リーグ3試合にもフル出場する。残念ながら日本は予選を突破できなかったが、初戦で対戦したアルゼンチンFWガブリエル・バティストゥータに衝撃を受ける。事前のスカウティングで彼の強烈なシュートを目に焼き付けたヨシカツは、試合で1対1の場面になったときに身体を張ってその強烈なシュートを止めにいった。が、しかし飛び出したヨシカツを嘲笑うがごとくループシュートを放たれ決勝点を奪われる。

このプレーに世界との差を感ぜずにはいられなかった。

1998.09.15 100試合目

Jリーグ 2ndステージ

記念すべき100試合目は横浜ダービー

vs 横浜フリューゲルス
2-0

入団から5年目のこの年に100試合出場を達成する。23歳で日本初のW杯にも出場し、日の出の勢いのヨシカツ。なおこの試合、相手のゴールマウスの前に立っていたのはあの楢崎正剛であった。

年間出場リーグ戦 34試合(通算112試合)

2000 充 実 25

ベストゲーム - アジアカップレバノン大会 -

自国開催のW杯に向けて就任から思わしい結果がでていなかったフィリップ・トルシエ監督だったが、この大会で優勝。日韓W杯での活躍を予感させた。ヨシカツはこの大会も正GKとして出場。決勝の後半、サウジアラビア代表の怒涛の攻撃を防ぎきり、1-0で完封する。自身のベストゲームとして挙げるこの試合の決勝点は中村俊輔のフリーキックをゴール前の望月重良が右足で押し込んだものであった。

ちなみにこの決勝の舞台に先発したメンバー11人の内、6人(高原直泰・西澤明訓・名波浩・望月重良・服部年宏・ヨシカツ)が清水市の高校出身で、交代して出場した小野伸二を含めるとその数は7人になる。


参考:AFCアジアカップ2000

年間出場リーグ戦 28試合(通算168試合)

2001 世界へ 26

世界との壁を埋めるために

世界との壁を感じ海外でのプレーを求めていたヨシカツ。シーズン途中で念願の海外移籍を果たす。

コンフェデレーションズカップ2001ベストイレブン

AFC月間最優秀選手賞

前年度アジアカップを制した日本はコンフェデレーションズカップに出場。各大陸王者8カ国、ヨーロッパからフランス、南米からはブラジルが出場するこの大会で日本は準優勝を果たす。準決勝では降りしきる雨の中、ヨシカツのスーパーセーブ、中田英寿の濡れたピッチの上を滑らせる低いフリーキックでオーストラリアを撃破した。ブラジルとの再戦はならず、決勝でフランスに0-1で敗れはしたが、ヨシカツは代表でも素晴らしい活躍を見せた。

年間出場リーグ戦 25試合

マリノス在籍時代 通算193試合

ポーツマスFC 

2001 苦 境 26

イングランドのクラブへ移籍も「チームにお前は必要ない」

当初、新天地では期待を持って受け入れられたヨシカツだったが、それはすぐ失望に変わる。言葉の問題だけではなく、シーズン途中の移籍であったため、ディフェンスに対する考え方、チームメイト、コーチと十分なコミュニケーションをとる時間がなかった。この頃はまだ日本人選手の海外移籍は珍しく、GKとしてはヨシカツが初であった。それに加え、チームでは失点はゴールキーパーの責任として見られる雰囲気があり、その事もヨシカツを苦しめた。

移籍してわずか三ヶ月でクラブ会長から放たれたこの言葉がヨシカツの胸をえぐった。

それでも海外移籍した決断を無駄にはできない。必要ないといわれてもチームに残りたいと伝える。その後もユースの試合に出場させられるなどの不遇な扱いをうけ、さらなる苦境がヨシカツを苦しめるが、それでも腐る事はせず、自身のサッカーへ向き合う姿勢を変えることもしなかった。

2002 悔しさも、信頼も 27

2大会連続のW杯日本代表に選出

クラブで苦しい状況が続くヨシカツであったが、フランス大会に続き、自国での初開催となる日韓大会でも代表として選出される。トルシエ監督が代表監督を務めたこの4年間は自身のコンディションのよさを感じる時期であったのだが、本大会では正GKの座を楢崎正剛に明け渡す悔しい大会となった。それでも予選を突破した後、トルシエ監督から「トーナメントを勝ち抜くにはお前の身体能力が必要だから、準備しておいてほしい。」との言葉をかけられる。この言葉でモチベーションを保つことができたし、トルシエ監督からの強い信頼を感じてもいた。

なおこの大会直前、ドーハの悲劇を経験し、前回のフランスW杯には主力として出場した中山雅史が招集され、驚きをもって報じられた。中山は直前の遠征にも召集されておらず、経験を評価されての選考だとメディアで伝えられた。所属クラブでは主力でありながら、このチームではサポート役の期待を感じたのか、練習にしっかり取り組むだけではなく、中山を中心に笑いがうまれた。大会前は代表メンバー争いが激しく、チーム内にどことなくギスギスしたものを感じていたヨシカツであったが、実力も、実績もあるこのベテランの振る舞いのお蔭でチームの雰囲気がよくなるのを感じた。選手としても、人間としても尊敬する思いであった。

アスルクラロ沼津 中山雅史選手

ジーコ監督の言葉

大会が終わりヨシカツもポーツマスに戻るが、苦しい状況に変化はなかった。そんな中、新たに代表監督に就任したジーコ監督がヨシカツの元を訪れ、「必ずチャンスがやってくるから、それを信じて頑張ってほしい。」と激励する。この先、クラブでも代表でもどうなるかわからない状況にあったヨシカツはこの言葉に大いに勇気をもらった。

FCノアシェラン

2003 変 化 28

出場機会を求めて。デンマークへ。

「試合に出たい。」

出場機会を求めたヨシカツは移籍を決意する。スタメンを確約して欲しいのではなく、平等に競争できる環境を求めた。それに海外での挑戦をまだ続けたかった。最終的にデンマーク ノアシェランへの移籍を決意する。移籍当初、試合に出場していたヨシカツであったが、DF陣との連携がうまくいかなかったり、何試合か大量失点をしてしまい、また試合に出られない日々が続くことになる。この頃、ノアシェランのGKコーチーから「サッカーだけでなく、もっと人生を楽しんだらどうだ?」とアドバイスされる。当時のヨシカツは自身の挑戦を成功させるために必死で、何かを楽しむ事などしなかった。必死すぎて、心に余裕のないヨシカツへの思いやりに溢れたアドバイスであった。彼はヨシカツがデンマークを去る際には家に訪れて涙を流してくれた。

2004 代名詞 29

歴史に残る死闘の記録 - 重慶の奇跡 -

サッカーに馴染みがない人でもこの奇跡を記憶している人は多いのではないか。7月31日、中国は重慶で行われたその試合は1-1の同点で迎えたPK戦、日本は2本を外し、対するヨルダンは3本を決める。もう後がない日本であったが、3本目のPKの際、ヨシカツは5万人を超える観客が喚声を上げるスタジアムである感触をつかむ。喧騒が耳に届かず、静かな瞬間が流れ、相手のシュートまでの動きがスローモーションのように見える。いける。そう感じたヨシカツはここから4本連続でPKを防ぐ。

『ゾーン』

そう呼ばれるアスリート特有の感覚。極度の集中状態。興奮状態にあるスタジアムを他所に、ヨシカツの心は静かな水面のように冷静で、相手の事も、自分の事も完璧に把握できた。1本も決められてはいけないPKでヨシカツは神がかったプレーを連発し、多くの人の記憶に残ることになった。

重慶の奇跡。それはヨシカツの代名詞である。

アジアカップ2004 ベストイレブン 受賞

ジュビロ磐田 194-421th 228games

2005 静岡へ 30

J1 ジュビロ磐田に移籍

ジュビロに決めたのは、前年からジュビロの監督で、ユース・アトランタオリンピックではコーチを、トルシエ監督の元では補佐を務め、長年にわたりお世話になった山本昌邦氏に誘われたことが大きかった。この時のジュビロには、中学高校の先輩後輩や、アトランタで共に戦った仲間である藤田俊哉、名波浩、服部年宏、田中誠、鈴木秀人らがおり、人間関係においても溶け込みやすい状況であった。なおこのヨシカツの移籍の後、ジュビロとノアシェランの間でGKコーチの留学を考慮したパートナーシップ契約が締結された。

2005.05.04 200試合目

Jリーグ ディビジョン1

マイアミで戦った仲間たちと

vs ガンバ大阪
2-1

200試合出場となったこの試合、共に戦う仲間には清水の時から一緒だった服部年宏、田中誠。率いる監督は山本昌邦。そしてガンバの監督はマイアミでオリンピック代表を率いた西野朗であった。ちなみにこの試合のガンバのピッチには遠藤保仁がいたが、彼はヨシカツの100試合目にもフリューゲルスの選手として出場している。

年間出場リーグ戦 29試合(通算222試合)

2006 忘れられない記憶 31

3大会連続でW杯日本代表に選出。3試合にフル出場も・・・

1分2敗に終わったW杯ドイツ大会。初戦のオーストラリア戦で1点リードで迎えた試合終了まで残りおよそ10分、相手のロングスローに対して飛び出していったが僅かに手が届かずにゴールを決められてしまう。長いヨシカツのゴールキーパー人生においても、忘れられない失点となってしまった。

グループリーグ3戦目では、予選を突破するために最低でも2点差以上の勝利をブラジル相手に収めなければならなかったのだが、この試合のブラジルのスタメンには、ロナウド、カカ、ロナウジーニョといった歴代ブラジル代表でも名を残すような選手がいた。その攻撃の凄まじさ、ボールを持たれたらとにかくシュートまで持ってこられるイメージしか沸かず、ヨシカツも恐怖を覚えた。後にこの経験があったために、相手にどのような選手がいようとも怖いとは思わなくなった。

Jリーグベストイレブン 受賞

年間出場リーグ戦 34試合(通算256試合)

2008 危機を救う 33

2008.05.10 300試合目

Jリーグ ディビジョン1

苦しい展開

vs アルビレックス新潟
0-1

アウェイで迎えた300試合目、前半17分に失点し苦しい展開に。チームも4月まではリーグ戦上位をうかがう様子を見せていたが、次第に成績が降下、入れ替え戦に回ることになる。

2008.12.13 J1J2入れ替え戦

プレーオフ第2戦

感じたことのないプレッシャー

vs ベガルタ仙台
2-1

ヨシカツが振り返る「あの時」

Jリーグフェアプレー個人賞 受賞

年間出場リーグ戦 33試合(通算321試合)

2009 怪我と涙 34

2009.09.19 347試合目

Jリーグ ディビジョン1

右脛骨骨折

京都パープルサンガ
後半43

スルーパスに反応した相手FWに向かうが一歩及ばずに接触。足を痛める。少し動かしただけでバキッという音がした。折れていることはすぐにわかった。ジュビロはヨシカツに代わりGK八田直樹を投入。担架で運ばれるヨシカツにサポーターは能活コールを送るが・・・

全治六ヶ月の大怪我。一人でトイレに行くこともできず。

この試合まで自身の調子も上がってきて、クラブでも、代表でも活躍できそうだった矢先の大怪我。全治六ヶ月と告げられ、思わず涙した。ヨシカツはこの怪我によってコンディショニングに難しさを抱えるようになる。右脛を骨折したことにより、どうしても左右のバランスが悪くなってしまい、これまでと同じ方法では自身の状態を保つことが難しくなった。相手の足元に飛び込んでいくためこれまでも多くの怪我をしてきたが、ここから本格的な怪我との戦いが始まる。

オシム監督の言葉。強い気持ちでリハビリに取り組む。

リハビリ中のヨシカツにオシム監督は「南アフリカワールドカップを目指せ。」「ベンチではなくピッチに立つことを考えろ。」と激励した。「お前はベンチにいても役に立たないのだから」と。この言葉に強い愛情を感じたヨシカツは涙が出るほどに喜んだ。こうした言葉に励まされてリハビリに強い意欲で臨むことができた。

年間出場リーグ戦 26試合(通算347試合)

2010 時代を代表するGK二人の献身 34

4大会目の選出も第三ゴールキーパー

病気のオシム監督に変わって就任した岡田監督から、前年に脛を骨折したにもかかわらず、W杯南アフリカ大会の最終メンバーとして召集される。異例のことであった。ただし第三ゴールキーパーだと明言されてしまう。試合にでられる可能性が低い状況であったが、自身のコンディションはもちろん、若い選手がやりやすい雰囲気づくりを心がけた。それはかつて日韓大会でチームによい雰囲気をつくりだした中山、秋田といったベテラン選手の背中を見ていたからでもある。ヨシカツ自身、フランスは自分、日韓は楢崎、ドイツは自分だったので、南アフリカは楢崎の番だろうと思っていたが選ばれたのは若き川島永嗣であった。それでもチームのために献身的な態度をとる楢崎にヨシカツは頭の下がる思いであった。

二人はお互いを高めあえる存在として認めあっている。十年以上代表のレギュラーを争ってきたというような張り詰めた空気はなく、ゴールキーパーとしても、プライベートでもよき関係である。ヨシカツにとっては「正剛」であり、楢崎にとっては「よっちゃん」だ。互いの存在がなければ果たして今日、二人はゴールマウスの前に立っていることができただろうか。

名古屋グランパス 楢崎正剛選手

意識していた、だから高め合えた。

正剛と僕とで代表の正キーパーのイスを争ってきた仲ですよね。やはり彼なくしていまの自分はないし、切磋琢磨してお互いレベルアップできたのではないかと思いますね。

--仲は良かったのですか?
仲は良かったです。でも周りにはどうしても1つのポジションを争うライバルだから関係が難しいのではないかと心配されましたが。でもそこはピッチとピッチの外では違うし普段は仲良くしていました。歳も近いですしね。彼は大阪人なのでよくつっこまてたりもしていました。良い関係でしたね。代表のポジションを争っている当時は「意識をしていない」と言っていたが、今となっては意識していましたね。でも、だから高め合えたのだと思いますね。

2010.11.03

ナビスコカップ決勝

壮絶な打ち合いの末の逆転勝利!

vs サンフレッチェ広島
5-3 延長

ヨシカツが振り返る「あの時」

年間出場リーグ戦 17試合(通算364試合)

2012 度重なる怪我 37

2012.03.17 400試合目

Jリーグ ディビジョン1

仲間からのプレゼント

vs サガン鳥栖
2-1

400試合出場となったこの試合、朝から生憎の雨であったが1万人を越える観客がスタジアムを訪れる。ホームで迎えたこの試合、400試合出場を祝う記念のセレモニーや、サポーターから能活コールをうける。そしてなによりチームメイトがヨシカツへ勝利をプレゼントしたいと試合前に話をしてくれていたことが嬉しかった。

右足のアキレス腱断裂

脛の骨折から復帰して、W杯に召集され、ナビスコカップでも活躍をしたヨシカツであったが、2度目の大きな怪我をしてしまう。3月17日のリーグ戦、400試合出場した後、練習中に右アキレス腱を断裂する。右脛の骨折との因果関係も否定できないと感じていた。復帰はこの年の天皇杯。およそ6ヶ月を擁した。

多くの人の支え

2度目の大怪我に心が折れそうになるも、家族や、スタッフの支え、その他大勢の人から多くのものを与えられてきたことを思いだすと、このまま中途半端に終わることはできないと奮起した。必死でリハビリに取り組む。それゆえに復帰できた時のヨシカツの喜びは無上のものであった。

年間出場リーグ戦 2試合(通算400試合)

2013 厳しい現実 38

減少した出場機会。プロ人生初の契約白紙状態に。

ようやくの思いで怪我から復帰するも、自身のコンディションも、チームの状態も思わしくなく、出場機会が減少してしまう。そしてこの年のオフに契約更新の意思がないことをクラブから告げられる。18歳でJリーグの世界に飛び込んでからずっとプロとして歩んできたヨシカツに来季プレーするチームが決まっていない状態が初めて訪れた。ちょうど二人目の子供が生まれたばかりでとても不安な気持ちでこの年を越すことになった。わずか3年前は日本代表であった。

Jクロニクルベスト ベストイレブン 受賞

リーグ誕生20周年を記念して、過去20年間のJリーグベストイレブンを選出するJリーグ主催の賞。

年間出場リーグ戦 21試合(通算421試合)

ジュビロ在籍時代 通算228試合

FC岐阜 422-464th 43games

2014 求められて岐阜へ 39

ラモス監督に声をかけてもらいJ2岐阜へ

不安な時期を過ごしたヨシカツであったが、自分を求めてくれるチームがあると知り安堵する。いくつかの候補から最終的に岐阜へ。この年から就任したラモス監督に直接声をかけてもらったことが決め手となった。若い時は周りの選手を叱咤激励することで自らをも鼓舞するヨシカツであったが、今同じことをすれば萎縮する若い選手がいるかもしれない。そう考え、また違ったやり方で若い選手を伸び伸びとプレーさせようと努めた。

岐阜でコンディションが上がらず、試合にでられない時に「お前はベンチに必要ない」と以前にオシム監督からかけられたのと同じような言葉をラモス監督からもかけられた。そうか、俺が戻るのはベンチではなく、ピッチなんだ。すぐにラモス監督の言葉を理解したヨシカツはとても嬉しかった。

「チームにお前は必要ない。」

「お前はベンチに必要ない。」

行く先でさまざまな言葉をかけられたヨシカツであったが、時にその言葉に勇気をもらい、時にはそれをバネにしてきた。これこそが人間 川口能活の真骨頂である。

2014.11.15 457試合目

J2 リーグ最終節

J1昇格の松本山雅を相手に!

vs 松本山雅FC
3-1

ヨシカツが振り返る「あの時」

岐阜では単身赴任状態。自炊、洗濯は苦にならずも・・・

ヨーロッパで単身暮らしていた時期はあったが、家族を持つようになってから単身で暮らすことには不安をおぼえた。特に生まれたばかりの二人目のことが気になっていた。なるべく連絡したり、帰るようにするなど、サッカーでは逆境にも負けずに乗り越えてきたヨシカツも、家庭人としてはほかの誰とも変わらない父親である。

年間出場リーグ戦 37試合(通算458試合)

2015 三度目の長期離脱 40

右足の半月板を損傷

怪我を抱えてからのヨシカツのコンディション調整はとても難しい。いいかな?と思うとまた怪我をしてしまう。どこかをかばうことで、違うどこかに負担がかかり、そこを痛めてしまうのだ。また今回も右足だった。

岐阜2年目のこのシーズン、復帰まで半年以上かかり、6試合の出場にとどまったヨシカツに契約更新はなかった。ただ以前と違ったのは、すでに声をかけてもらっていたことだった。

年間出場リーグ戦 6試合(通算464試合)

岐阜在籍時代 通算43試合

SC相模原 465th-

2016 2度目のオファー 41

J3相模原に移籍「もうひと花、咲かせてほしい」

「お前、清商にこいよ。」

その言葉を聞いたのはヨシカツが中学3年の1990年、15歳の時だった。そして25年後、四半世紀を経てかけられた2度目のオファー。待てばほかにもオファーがあったかもしれないが、胸に響く言葉で自らの道を歩んできたヨシカツはこの言葉で相模原への移籍を決断する。望月は清商の2つ上の先輩で、同世代には藤田俊哉、名波浩、大岩剛、薩川了洋、平野孝らがいた。厳しい先輩ではあったが、1年からレギュラーになったヨシカツの事を認めてくれていた。

J2にいった時もそれまでと違う環境に驚いたが、相模原はJ2のライセンスを持たず、専用の練習場もない。日々違う練習場に通い、練習後は駐車場でクールダウンすることもしばしばだ。

それでも家族のいる自宅から通えることが嬉しかったし、力になっている。ホームゲームに家族を招待できることは大きな励みだ。ここ数年、春先はコンディションの調整が難しく、開幕スタメンこそ逃したが、5月8日にホーム秋田戦でJ3デビューを果たすと19試合に出場した。

相模原ではこれまで以上にチームメイトへのアドバイスや、クラブのホームタウン活動への参加を積極的に行っている。自分に求められている役割もこれまでとは違うものがあることも理解している。J3でヨシカツの新たな挑戦が始まった。

年間出場リーグ戦 19試合(通算483試合)

2017 偉業 Jリーグ通算500試合出場 42

2017.11.19 500試合目

Jリーグ ディビジョン3

怪我を乗り越えて

vs FC東京U-23
0-0

気温12.2度、寒空のギオンスタジアムに5,000人を超えるサポーターが集まった。前節後半から途中交代し、怪我での出場が危ぶまれたヨシカツであったが、ピッチに元気な姿を見せた。試合はヨシカツを祝う勝利とはならなかったが、試合後のスタジアムには多くのサポーターが残り、ヨシカツの500試合出場を祝った。引き分けたことに悔しさを滲ませるヨシカツの姿に、今なお熱く燃える勝負への執念を感じさせる一戦であった。

試合後ヨシカツコメント

この偉業500試合には、リーグ戦以外のカップ戦、天皇杯、入れ替え戦、海外クラブチームでの試合、ユース代表、そしてゴールキーパーとして最多の日本代表116キャップは含まれていません。この500試合はそうした試合と並行して長年にわたり積み上げられてきました。日本中の誰もが注目する試合でも、そうではない試合でも、ヨシカツはなんら自分のサッカーへの向き合い方を変えることなく準備し、試合に臨み、私たちに胸の熱くなる試合を届けてきてくれました。そしてこれからもその数を増やし続ける日本を代表するアスリート、それが川口能活選手です。

この偉業への尊敬、この努力の歴史の中に相模原の名前を刻んで頂いたことへの感謝、人間 川口能活への敬愛を込めてこのメモリアルサイトを贈ります。

2017年11月19日

株式会社スポーツクラブ相模原